JTPI設立宣言

はじめまして、NavalMineといいます。
この度、独自路線を掲げた新団体JTPIを発足させました。

昨今、新進気鋭のタイパー団体が雨後の筍のように次々と設立され、さながら群雄割拠の様相を呈している事は界隈の事情に知悉しているタイパー諸兄姉には周知の事実かと思います。
こういった潮流の中にあって独自色の薄い新団体を設立する事は、ややもすれば屋上屋を架すだけになりかねません。
そのため、当団体はスコアを追求して切磋琢磨する事を目的とするのではなく、実用主義を標榜し社会的側面へのアプローチに焦点を当てています。ここでいう実用主義とは、実用タイピングの事ではなくPragmatismを指しています。

こうしたスタンスの背景には、タイピングをめぐる社会的受容のあり方が関係しています。
巷間の注目は打鍵力よりもプレイヤーという主体に向けられています。
もちろんこれは諸事象に通底する普遍的傾向ではありますが、競技としての側面が人口に膾炙していないタイピングにおいては、とりわけ顕著に感じられます。
要するに、我々のような無名なタイパーがe-typing腕試しで1000ptを叩き出すよりも著名人が400ptを出す方が世俗的関心を集められるのです。現状での競技タイピングは、そういった”付加価値”がなければ大衆には見向きもされない、訴求力に乏しいコンテンツだという実情があります。

とはいえ、現代のデスクワーカーの大半は好むと好まざるとに拘わらず、タイピングとは無縁ではいられません。それだけ多くの人々が日常的にタイピングを行っているという事実が存在する以上、潜在的なタイパー予備軍人口は現状のタイパー人口よりはるかに多いはずです。
それなのに競技タイピングがいつまでも日の目を見ないマイナー競技の座に甘んじているのは、彼等にとってはタイピングは単なる入力手段に過ぎず、より利便性に優れたインターフェースが登場すればあっという間に置き換えられるという事を意味します。
市井の人にとって身近な存在であるタイピングと、競技タイピングの間には千里の径庭があると言っても過言ではないでしょう。

入力インターフェースとしてのキーボードの不動の地位は今後も揺らがないと考えているタイパーの方も多いかもしれません。
しかし、果たして本当にキーボードの地位は盤石だと言い切れるでしょうか?
ゼロ年代の日本で隆盛を誇ったガラケーはスマートフォンの台頭により、僅かな年月でシェアの大半を奪われました。近年のスマホはマイナーチェンジの繰り返しが続き、新たなデバイスに置き換わる兆しがないのは、モバイル端末の進化の終着点に近いからだと考えています。

では、キーボードはどうでしょうか?
QWERTY配列は明治時代初期、江戸時代終焉のわずか4年後の1872年に発明されました。
幾多の創意工夫により、ラピッドトリガー、APC、Nキーロールオーバーなどの改良が施されてきましたが、キーを押下するという基本的構造は当初から全く変わっていません。このように150年以上にわたって連綿と続いてきたキーボード入力文化ですが、
ガラケー → スマホのようなドラスティックな変化は、いつ起こってもおかしくないのです。

現実的な脅威の一つに“思考入力”があります。
例として、米Neuralink社や英MindPortal社などが脳波を読み取って文字入力する装置を開発していると報じられています。
現時点ではSFの領域にも感じられる技術であり、実用化には時間がかかるとされていますが、テクノロジーは日進月歩で進歩するため、悠長に構えていられません。競技タイピングに関心がない人にとって、習得に時間を要する上に非効率的な旧態依然とした入力方式を使い続ける理由など存在しないのですから、ひとたび思考入力装置が実用化されればあっという間にキーボードを淘汰していくでしょう。
畢竟、タイピング文化の帰趨は遅かれ速かれそうした結末を迎える蓋然性が高いと考えています。
そのような結末を回避し、タイピング文化を後世に継承していくためには、キーボード入力が一般的な今のうちに「競技としてのタイピング文化」を世に広めておく必要があるのではないでしょうか。

QWERTY配列とほぼ同時期の発明に、人力車があります。
自動車が大衆に広く普及したことで移動手段としての役割を終えた人力車ですが、
今でも観光地では俥夫が人力車を曳いている光景は珍しくありません。

では、自動車が大衆に広く普及した今でも人力車がなぜ現存しているのでしょうか?
車やバイクの方が速いのに、なぜ陸上競技が存在するのでしょうか?
…ヒトが単に効率だけを追求する生き物ではないからです。

進化生物学的には、脳より先に腸(消化器官)が進化したと考えられています。
脳は、食料確保を効率化するために発展した臓器であり、腸の存在が前提となっているのです。
リチャード・ドーキンスによれば生命の本質はDNAにあり、肉体はDNAが自己複製を効率よく達成するための乗り物に過ぎないとされています。
では、なぜ我々タイパーは生命活動に直結しない上に、DNAを後世に残す事にもまったく役立ちそうにないタイピングに熱中しているのでしょうか?それは、人類がDNAの生存戦略により脳が進化する過程の副産物として、生存や繁殖に直接役立たない活動にも喜びや価値を見いだす事のできる知性を獲得した生物だからです。
このようにDNAにとって役に立たない事を楽しめる能力こそが、人間を人間たらしめる重要な要素なのです。

19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、世界の本質である「意志」が段階的に客体化するという考えを示しており、人間をその最も高次の段階に位置付けています。彼によれば、下等な生物になるほど個体ごとの差異、いわゆる「個性」は種としての一般的な性格の中に埋没していきます。昆虫、たとえば蚊に個体ごとの顕著な個性は見られません。これは蚊が意志の低次の客体化の段階にあるため、その行動が種に固有の本能によって大きく規定されているからです。これは、重力などの自然諸力が意志の最も基本的な客体化として、現象界において完全に因果律に従って現れることと類似しています。
一方、即物的な報酬が得られる見込みがほとんど存在しないにも拘わらず、大多数の人が興味を持たない競技タイピングにどうしようもなく引き付けられ、耽溺するタイパーという存在は、まさに人間という生物の規定困難さ、意志の客体性の段階の高さの証左と言えるでしょう。

では前述のような著名人や推しのタイピングには関心があるのに、タイピング競技そのものに無関心な人々は動物的なのかというと、決してそうではありません。この”選り好み”はまさに人間に顕著であり、誰を推すかは十人十色です。むしろ人間を動物から区別する個性的な性格の一現象とみなすことができるのです。

—閑話休題—

世俗的評価を追い求める人間には、競技タイピングを長期にわたって続けることは困難です。
自己に内在する得も言われぬ欲求のみを原動力とできなければただの苦行でしかありません。
常人には理解しがたい世界です。タイパー界隈はこのフィルターを潜り抜けた好事家の集団であるため経済的利益や名声に無頓着な人が多い傾向にあります。

無欲と言えば聞こえは良いものの、私には界隈の存続にとってマイナスに作用している側面があるのではないかと危機感を覚え、自らが唱道者となり競技タイピングの魅力を世間一般に発信していく必要があると考えるようになりました。

キーボードという入力インターフェースがやがて廃れていくトレンドを阻止する事は事実上不可能かもしれませんが、仮に新たな入力方式がデファクトスタンダードとなってしまった後でも、今でいう人力車のような形での新技術との共存を図り、タイピング文化が完全に消滅することのないソフトランディングを実現させる事がJTPIのミッションなのです。

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