戦後初期の日本は安保を米国に依拠し経済に傾注する事で高度経済成長を遂げた。
これを吉田ドクトリンという。
タイピング界に於いては ぁ~ん、PTG、ζyperを筆頭とした正統派タイピング同盟、言うなれば「矛」があふれている。
ならば矛を彼らに預け、我々は盾となりタイピング人口という国富を増やすことに専念する。それこそがJTPIの目指すところだ。
現状は矛へ傾倒しすぎているきらいがあるため、ぁ~んを核としたヘゲモニー政党制から二大政党制への転換も目論んでいるが。
さて、巷では呪術廻戦、名探偵コナン等の人気IPとコラボしたタイピングソフトが流通している。
こうした版権ビジネスは一大市場を形成しており、タイピングソフトはその一例に過ぎない。
タイピングをテーマに据えた作品を作るのではなく、それとは全く無縁のコンテンツを育てていき、
タイピングとコラボさせる手法の方が受容されるのだ。一種の抱き合わせ商法と考えることも可能である。
これはタイピングという苦味をIPがオブラートに包み——服薬ゼリーとして作用するからである。
タイピングとは全く関連性のない人気IPを生み出し、作中に徐々にタイピング要素を取り入れていくという減感作療法的
サブリミナル戦略は一考に値するが、実行するには我々のリソースはあまりにも不足している。
娯楽が飽和している現代でそう簡単ではないのだ。
ただ一つ確実なのは正攻法で正面から真っ向勝負するのではなく、遠回りする必要があること。
それは第二次ポエニ戦争におけるファビアン戦略に例えられる。
伝統的タイピング同盟が「ガンガンいこうぜ」ならJTPIは「待ちガイル」である。
我々はなにもハンニバルの軍勢と戦っているわけではないが、競技タイピングが訴求力に乏しいコンテンツである以上、
幾許か奇を衒った戦術が求められる。
助手向けに言えば近年では”ウマ娘”が今まで競馬とは縁遠かった者達を競馬ファンへと変貌させた。
競馬に介在しているギャンブルとしての側面、負の印象を萌えで包み込んで競馬の魅力を伝える事に成功したのだ。
今では「ウマ娘は飽きたが競馬はやめられない」という人もいるだろう。
こうした人々は競馬と縁がなかったが故に競馬の魅力を知ることがなかった食わず嫌いと言えるだろう。
だが、競技タイピングが直面している問題の本質はそうした”食わず嫌い”ではないことだ。
服薬ゼリーが枯渇した際、好き好んでその薬を飲むのは味覚障害者——俗にタイパーと呼ばれる人々——だけだ。
成熟した成人の嗜好を変容させることは困難である。最大公約数的な無難な設計のタイピングゲームが大人向けの最適解なのだろう。
昨今子供たちの間でタイピングゲームが流行しているのは、一応教育コンテンツとしての体裁を纏っているため、
規制されにくく学校でもプレイできるというのが主因であるかもしれない。
実際はタイピングよりもSwitchをやりたいというのが大多数の子供の本音であり、あくまで消去法での比較的マシな選択という面はある。
けれども、数多のファーストフードチェーンが子供向けの商品を繰り出して子供をターゲットにしているように、
成長期の脳の可塑性を利用し、嗜好を形成させて将来の顧客を育てる戦略がある。
類似する発言で吉田・・・もとい吉野の名を冠した店が世論の俎上に載せられた事は読者の皆さんの記憶にもまだ新しい——とは言えないか、
既に3年も昔の話である。
近年のICT教育の副産物としてタイピングの真髄を真に理解する子供達が現れている事は大変喜ばしい。
タイピングの真髄を理解し、タイピングそのものに享楽を見出せなければあれだけの高みに達することは不可能だと考えており、
それは既に報酬系の完成されてしまった大人には困難だと考えている。
事実、近年頭角を表し界隈を賑わせているタイパーたちはそのほとんどが少年(男児)である。(断じて”生娘”ではない)
長々と蘊蓄を述べたがはっきり言って当団体にはリソースが圧倒的に不足している。
先に明かしておくと羊頭狗肉のハリボテ組織、というのがJTPIの実態だ。実情が判明するにつれて大言壮語の誹りは免れないだろう。
しかし競技タイピング文化の存続の分岐点にあって座視しているわけにはいかず立ち上がった。
最後まで抗って大きなバタフライエフェクトを起こせる事に一縷の望みをかけている。
ところでこんな辺鄙な、偶発的にアクセスするとは到底考えにくい辺境サイトを訪れている時点で
貴方も競技タイピング文化に一家言ある人物と拝察する。
ここで一つ私から頼みがある。JTPIに賛同するかどうかはさておき、競技タイピング文化の普及への協力を要請したい。
ニホンミツバチが蜂球を形成してオオスズメバチを倒すように、ランチェスター第一の法則が示唆するように、弱者の戦術とは自陣の劣勢を認識し
局地的集中を以てしてそれを補う事なのだ。
戦後、高度経済成長が終焉を迎えた際の時の宰相であった田中角栄は数の論理を提唱した。
それは古今東西から脈絡と受け継がれている政治理論である。
これは体系立った思想というより、アプリオリに備わった動物的本能のようなものかもしれない。
まだ時期尚早であるからJTPIの新メンバーは募集していないが、気が熟せばJTPIメンバーの募集を行う計画はある。
とはいえ元より少数派であるタイパーの部分集合は微々たる集まりに過ぎない。だからこそJTPIが設立されたという逆説的経緯があるのだが。
ちなみに、私のこのやたらと衒学的で意味不明な文体は実は意図的な演出である事を告白しておこう。
新規加入の申し出を断る心理的負担を回避すべく、晦渋な記事を連投することで「怪しい組織」と思わせて加入意欲を削ぎ牽制する狙いがあったのだ。ところがTwitter上の反応を見るに、皮肉にも私自身がレピュテーションリスクとなってしまい、組織の評判を毀損していると気付いた。
私の自己満足で目標達成が遠ざかるようでは本末転倒である。ゆえに近々、私は一旦筆を擱くつもりだ。
「戦略的曖昧さ」を堅持するためにも、あまり多くを語らないのが得策であると判断したことも影響している。
・・・”一億総タイパー社会”それはJTPIの目指す社会であると同時に、タイパーの理想郷のはずだ。
もっとも、助手のように市井の喧噪から隔離されたアングラな雰囲気に安寧を見出し、終の棲家としていた者にとってはコロンブスとインディアンの邂逅に等しい結果をもたらすかもしれないが。